CINEMASCAPE 2

cinemascape 2 【「10+1」(INAX 出版)にて連載・2002年4月】

 人生の複雑さを受け止めるために・反メソッド論 / 舩橋淳
  Securing the Complexity of Life: Anti-Method Theory

 

拙作『エコーズ echoes』の撮影前、私の英語力の問題から、演出上のコミュニケーションを助ける方策が何かないものだろうか、と考えた。プロダクション前のリハーサル時、俳優たちには、私の言語能力の限界を補い助けるよう求め、彼ら自身の言葉で台詞を言い換えることを注文した。この方法論により、台詞を厳密な意味で脚本通りに再現するのではなく、俳優たちが自分自身の言葉でリアリティを生み出してくれれば、というのが狙いだったのだが、しかし、その過程はけっして首尾よく進んだわけではなかった。 ニューヨークの俳優の多くは、スタニスラフスキー・システムと呼ばれる演技メソッドに基づいたトレーニングを受けている。もとはロシア演劇のために提唱されたが、アメリカに輸入され、リー・ストラスバーグのアクターズスタジオを中心として、ブロードウェイと映画の世界に拡がった。キャラクターの内面化を徹底し、役柄への同化を目指す演技の方法論である。アメリカの俳優の間では単に「メソッド」と呼ばれる、この体系化された演技システムは、映画にとって有効な手段なのだろうか。 メソッド俳優は、「キャラクタリゼーション」を至上とする。演じる役柄の性格、どのような環境で育ち、どのような経験を持ち、どのようなしゃべり方、歩き方、ものの捉え方をするか等々、徹底的に役柄の解釈を突き詰め、その役になりきることである。マーロン・ブランドやロバート・デ・ニーロなど、身体の風貌まで大幅に変えてしまったという伝説がある、極端な没頭主義である。 メソッドの教育を受けた俳優の多くは、感情の表現がステレオタイプ化してしまうという傾向がある。怒り、嫉妬、憎しみ、愛など、システム化された感情の類型への同一化は、俳優の発想能力にかかっている。俳優の想像力が貧困だと、感情も凡庸なものでしかなくなるのだ。この方法論では、生来からその映画的な風貌、立ち方をわきまえているイーストウッドには一生かかっても追いつくことはできない。映画的な振る舞いとは、役者からステレオタイプな感情をすべて剥ぎ取るところから生まれるのだ。その最たる人は、ブレッソンである。 一九五〇年代後半、傑作『アメリカの影』の撮影に没頭していたジョン・キャサヴェテスは、メソッドの教祖であるアクターズスタジオ主宰、リー・ストラスバーグを真っ向から批判した。 メソッドが支持されるのは、役者は[訳者註:感情を隠すため、実生活で人間が被る]仮面、つまりより現実に即した役柄を創り出さなくてよいからだ、とキャサヴェテスは考えた。役者は、個人的な妄想や感情で自分の役柄を染め上げてしまうことが許された。自分から抜け出して、まったく異なる他人になりきるのではなく、役者はパーソナルな欲望と必要性に基づいてキャラクターを形作ったのだ。(…中略…)その結果、キャサヴェテスとバート・レーンによれば、怠惰で感傷的で、ナルシスチックな演技を生んだのだ。性格というプリズムを通して人間の感情を屈折させ、抑制する「仮面」を無視することで、アクターズスタジオは演技と人生を単純化してしまったのだ。キャラクターの外の社会生活は消失し、全て内面化してしまった。(…中略…)キャサヴェテスとレーンは、メソッドを否定するため『組織化された内向化』と形容した。キャサヴェテスにとり、ドラマの基本概念のひとつは、人間は社会的な生き物だ、というものだから、これ以上に大きな欠陥はないだろう。社会のなかで表出する個人の複雑な感情ではなく、単純な感情の形態のみで人生を理解することは、イコール人生を凡庸化することだ――演劇において、かつ人間において★一。 メソッドとは、現実世界の人間の「仮面」を剥ぎ取った演技形態である。換言すれば、人格を理性と感情の入り交じった複雑な多面体としてではなく、単純化された平面として捉える方法論と言えよう。映画とは、人生の豊かさすべてを取り込もうという行為である。それを一面化してしまうメソッドは、本質的に映画とは相容れないのだ。アクターズスタジオ出身の名優、ブランド、デ・ニーロは、彼らのインテリジェンスによって、キャラクターの内面化を防いだ例外的な成功例と捉えられるべきだろう。 では、この演技理解についての本質的対立を、私は撮影現場でどうやって解消したか。 答えは、ケース・バイ・ケースの対処療法しかなかった。役者たちなりに理解できる「理由付け」(たとえ自分ではそんなことはどうでもよいと思っていても、だ)と自分が本当に探し求めている演技のダブルスタンダードで、まるで違う言語を話すように対話するしかなかったのだ。アメリカでは、映画作家と「プロ俳優」の言語は、すれ違い続けるしかないのだろうか。 『エコーズ echoes』のあるシーンで、ひとりの女優が重度のブレイクダウンに陥った。私の指示と彼女の役柄についての理解が対立し、何をやっても彼女は不安になり、最後には怒り出してしまった。なぜか。私が、彼女に満足ゆく必要十分な、役柄についての情報を与えずに、彼女にインプロヴィゼーションを求めたからだ。俳優は答えを常に求める。「なぜ、なぜ、彼女は娘に対し怒るのか?」という問いに対し、私が「彼女はどうしても娘に腹が立つのだ」と答えると、彼女は激高した。 役者には、役者なりのロジックがある。演技とは、俳優の準備したキャラクタリゼーションに基づいて行なわれる。彼女がどうのような性格で、今までどのような環境で育ってきたかがその性格を形成していて、したがって今のような状況では、彼女は〜のように反応するはずだ、というロジックである。このロジックにより正当化して「娘に対し怒る」時点で、彼女はステレオタイプなイメージをなぞり始めている、と私は考えた。現実では、人間は理由もなく急に怒りが込みあげてきたり、またその怒りを隠そうとしたり、取り繕ってみたり、いろいろ複雑な表情を見せるものだ。彼女が陥っているステレオタイプな「怒り方」を忘れさせるために、私は彼女に即興を求めたのだ。 先のまったく見えない不安定状態に、彼女は曝され続けた。彼女は、不安で不安で仕方がなく、それを強いる私に激怒し、きつく当たった。答えが分からないのが人生であるのに、俳優は答えを知りたがるという、メソッドの矛盾が現場で露わとなった瞬間であった。当時は私自身も苦しんだのだが、この不安感が彼女に演技の深みを与えた、と今では思っている。 俳優に即興を求めることは、映画作家として、脚本に書いた言葉のニュアンスを放棄することを意味する。しかし、それは言葉のコノテーションを一切廃した映画を意味するわけではない。私の選択した演出法は、台詞は俳優に任せるが、そのニュアンスを受動的に判断するというものだ。それは、英語のヒアリングはほぼ不自由なくできるが、口語表現はアメリカ人のそれに比べるとまだまだであるという、私個人の言語能力の偏りから生み出された対処法であった。主題が言語表現を超えたものである限り、映画にはなる、という確信が根底にあった。私の質問やアドバイスにより刺激された俳優が、その場限りの「身振り」と「声」を生み出してゆく――それは結果として、彼らが映画のなかで人生を生き直すことを意味した。 その場限りの即興を互いに受け入れ合う演出家と俳優の関係は、ある「緩やかさ」を画面に招き入れる。予測不可能な現実そのものの空気とでも表現できようか。目の前で物事が起きている感覚、現実をそのまま画面に取り込んでしまうような、ドキュメンタリー的な魅力である。人生の複雑さをそのまま受け止めようとする身振りは、ドキュメンタリーを映画に引き入れようとする運動と一致するのかもしれない。 その生涯を通じ、フィクションとドキュメンタリーの境界を横断し続けた映画人、ロバート・クレーマーは言った。 私はこう思った、「俺は自分の知っていることについての映画を作りたい。もしかしたら映画[の脚本]を書きたくなるかもしれないが、しかし観客にはそのとき初めてその事態が起こっているように感じさせたい。この即物的な現実全体の雰囲気が欲しいが、一方で自分で語りたくもある。人々を通して語りたい、自分も映画の中にいたい」。これが始まりで、その後さまざまな変化を経て来た★二。 この「即物的な現場全体の雰囲気」をどうやって撮ればよいのか。そのためのメソッド=方法論はない。いかなる方法論にも依存しないことが、反メソッドの本質だからだ。クレーマーがその生涯を通じ、わが道を模索し続けたように、個々の映画に応じた独自の方法論を切り開いてこそ、それは成し遂げられる。人生の複雑さを映画で受け止めるためには、キャメラの前で人生を生き直す役者のドキュメンタリーを、千変万化の撮影現場で創り出さねばならない。 メソッドと訣別した今、私は、自分の演出言語を共有できる俳優を募り、彼らとの関係を深めてゆこうとワークショップを始めたところだ。

註 ★一――Ray Carney, Cassavetes on Cassavetes, London: Faber and Faber Limited, 2001. ★二――山形国際ドキュメンタリー映画祭公式ウェブサイト、Documentary Box「対談:フレデリック・ワイズマン、ロバート・クレーマー」より抜粋。 URL=http://www.city.yamagata. yamagata.jp/yidff/docbox/12/box12-1.html

 

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