DIARY 2003



11.23.03

God Father
Francis Ford Coppora
1972   174 minutes    Paramount Pictures

犯罪映画というジャンルをテクニカラーで、しかもオペラのように壮大に形式化したのがこの作品。スケールの大きさが人を傑作と言わせがちだが、実は話のパターンは限られている。

じっくりねられた仕掛けとそれを見せるときの映像の連携ぶりが実に見事だ。映像美と殺しのトリックを見事にブレンドする、それがコッポラの才能なのだ。極端にコントラストが付けられた屋内と屋外の空間。明と暗。闇の中でじっくりと見えてくる人影、人の表情、目つきが素晴らしい。その「じっくりと」見えてくることにたいするフィルム的感性が卓越しているのだ。

1972年当時の批評家が「He doesn't tell this and that. He just show what's happening without telling the meaning of it. He's just showing the comlexity of the reality.」と表現したように、(他のハリウッド映画に比べて)、ロッセリーニよりの画面=つまり複雑なリアリティをそのまま記録してゆく画面を志向している。それは面白いし、洗練されていた。しかし、ロッセリーニ、ゴダール、ロメールの画面の「複数性」に比べて、まだまだプロットの「箱」の制約がある。つまり、画面の中での複数性は描かれていたものの、人生の寓意、意味、テーマの網の目は単純きわまりなかったと言えるだろう。ラスト、奥さんDiane Rane に、妹の婿を殺したのにウソをついてドアを閉めるあたりなど、分かりやすいが、それ以上深いレイヤーが、マーロン・ブランドと3人の息子、それを取り巻く人物、敵との間に見えてこなかったのは残念だ。ただただ人物とアクション(銃撃戦)を見せるスペクタクルだけでなく、何かエニグマであるGod Fatherの何かに迫る瞬間がもっとみたかったということだろう。(その点で言うと、唯一ラスト、マイケル(Al PAccino) がGod Father のダークさを身につけてきたのが、面白かった)

しかしアルトマンのようにどうにも収集できず、はちゃめちゃになてしまう才能のなさより、コッポラの事態を収局化させる頭脳は、より高度であると言えるだろう。

俳優の演技の質は最高である。特に、ブランドとパチーノが、庭先で二人で語り合うシーン。素晴らしい視線の交差、人物配置(ブランドが場所を画面向こうから手前に移動)、画面内での距離の接近という視覚的ドラマを構築する映画的知識をコッポラは全てこの映画に注ぎ込んだとも言える。Diane Ranem, Malon Brand, Al Paccino はすごい。しかし、ブランドはやはり、創ったという感じが出てしまうのは否めない。Sicilian Mafia の本物を見たことが有る人間にとっては、創り混んだ「威厳」に見える。



11.3.03

Twenty Days without War
Alexcei Guerman
USSR, 1976

素晴らしい撮影、光だ。霧の中を歩き続ける将校、20日間だけ戦隊を抜けることが許された。
そこで、戦争の中で行き来と生きる子供達、村の人間達の日常を目にする。そして一人の女と出会い恋に落ちる。

戦中をつっきる列車の暗い車内に揺れる鍵の音、暗い人間達の顔が画面を占める中、突如挿入される少女の顔のクローズアップ、耳をつんざく汽車の警笛、まばゆいばかりの白い大地の出現など、映画的感性を揺さぶる瞬間に満ちている。話は単純だが、人間達が魅力的であり、挿話、アクション、Mise-en-Scene, で観客を引き込む。体調不良で寝てしまいそうだったが、余りにも強烈な画面に何度もたたき起こされた。



10.29.03

Elephant
Gas  Van Sant   

テクニックに偏りすぎている、人工的すぎるという印象を持った。しかし、ドキュメンタリーとしてその場に入り込んでしまい、その画面の強度で勝負するという戦略は、有る程度成功している。では、この「それ以上が見たい」と思う欲望はなんだろうか?

ドキュメンタリーでなく、再現としてフィクション化する意義ーー時間を操作し、同時多発的におきる事件を複数の時間として把握することーが考え尽くされている点は、評価すべきであろう。素晴らしい視点である。

「モチベーションが薄い」J. hobberman (下記引用参照)が評したのは、事件を同時的に記録し、それとフィクションとしてのアーティスティックな方法論とを巧みにミックスするスタイルを追求した結果である。それが、いいか悪いのか、断じるのは難しい。一般の観客が、次に何が起こるのか、複数の主人公達の生活描写の中に、彼らのキャラクター、動悸、悩み事などを理解し、それとストーリーが絡んでゆくことを期待している場合、emptiness time durationにとまどうかも知れない。それに比べ、celebration の方が、まだ親切なストーリングであった。Dogma は、ドキュドラマというように、「現実の中」のように見せつつも、ちゃんと主人公達の葛藤、文脈、対立をそつなく見せ、「ドラマ」を構築していた。それにくらべ、この作品は、「ドラマ」にかけるといえるかもしれない。その意味で記録映画的(何も起こらないのが大前提)といえる。この戦略が成功したのも、観客の誰もが知っている事実ーMasscore ーをサスペンスとして利用したからだ。いつ、突発的な殺戮が始まるか分からない緊張感、それを時間を複数に組織することでいっそう混乱させる。それが、この映画のドラマなのだ。

時間を永遠と引き延ばしたいというガスバンサントの欲望が、画面に満ちている。それが、発砲の衝撃音により破られる瞬間は、悲痛である。この悲痛さがこの作品の本質なのかも知れない。

オフスクリーンの使い方は素晴らしい。虐殺は極力画面外で「見せ」、"You can go to the restaurant to eat if you complain." という少年の親を、フォーカスのはずれた画面奥で見せるという「選択的視点」は全体のスタイルとして見事に紡ぎあげられている。

35ミリ1:1.33のフレームで、露出補正はナシ、ステディカムによる校内の時間の「記録」、emptiness 漂う校庭の時間にベートーベンの月光を載せるという時間の異化、など高度に組織されたスタイルは、ドキュドラマと一言で括ることはできないシネマであるといえよう。現実におきた事件のフィクション化を試みたこの作品は、それ以外のアプローチがあり得ないのではないかと思えてしまう見事な方法論である。他の方法が思いつかないと感じさせるのが、傑作の定義であるかもしれない。

しかし、大量虐殺事件を映画化するという本質に立ち返ってみると、事件をドラマ化=サスペンス化するという目的に映画のすべてが奉仕しているため、その奥にある深み (Hobberman が"fathomless depth"と表現したもの)に欠けているといわねばならない。例えば、事件後どのように少年達が逮捕され、どのような時間を過ごしたのかなどの「社会的な」視点は排除されている。そのような「意味づけ」は自分で考えなさい、とでもいうように。加害者である主人公Alex の荒廃した精神は何度か垣間見られた。それだけでショッキングだし、すぐには飲み下せない何かがある。実在する事件の悲痛さを同時体験させることと少年の荒廃した精神を提示するだけで充分だ、と監督は決断したのであろう。

私自身は、このまま殺戮がどのように終了し、彼らが逮捕される瞬間まで見たかった。
殺戮の最終的瞬間で映画を切断するのは、最もショッキングなエンディングかもしれない。 しかしそれでは、"Most importantly HAVE FUN." という心に突き刺さるセリフ(J. Hobberman says, "curiously absent of evil") に見られる少年のサイコを、充分に捉えきれていないと思う。ラリー・クラーク的なシャワーの中でのキスという「人工的な、姑息な」演出、alex の不可解なサイコに本当の意味で迫ることができなかったという点で、ドメスティックバイオレンスのラストシーン、キアロスタミのクローズ・アップの領域に達していない。この点において、真の意味の傑作にはなり得ていないといえよう。

J. Hobberman "Village Voice"  より

Their being and impending nothingness is the movie's real subject.
An undercranked game of touch football, scored to Beethoven's Moonlight Sonata (one of the movie's recurring themes), is transversed by an inexplicably smiling beanpole of a girl who passes through the foreground in ecstatic slow motion. Truly, Elephant (as in "in the room") is a most unconventional docudrama.

The HBO moment comes in a scene that firmly disapproves of adolescent meanness. Otherwise, flagrantly artistic and transfixed by its own enigma, Elephant is strongest on evoking a succession of specific, "empty" moments and weakest on motivation.

Elephant is naturally divisive and disturbing, but it's also deeply tactful perhaps too much so. The shooters make a pretty pair of Lucifers, but evil is curiously absent. It's as if the filmmaker were trying to imagine what Columbine might have felt like for one of the melancholy guardian angels in Wings of Desire.



10.9.03

Iron Horse
John Ford   1924

最後二つの鉄道会社がGolden Spike を打ち込む、その直前に主人公の青年Davy (Brandon Oユbrien)が「Golden Spikeが打ち込まれれば、こちら側もあちら側もないさ」大きな2つの人の流れが一つになる。なんともジョン・フォード的な主題だ。

小さな挿話がおもしろい。3人組みの中佐、少佐、一等兵の仲良しが歯医者(兼床屋!)に歯を抜きにくる話。
西部の大陸横断鉄道建設の前線基地ではすべてが「間に合わせ」だーー歯医者と床屋、酒屋と裁判所!ってのがギャグであり、このような荒唐無稽さには呆れ果て、笑い転げるしかない。

一つの物語の軸として、レールを敷くというきわめて単純な作業、しかも大陸を横断するという最終目標のはっきりした持続を、見せることは映画の画面としても、そのアクションが目に焼き付き、「アイアン・ホース」を見たものはあの鉄槌を打ち下ろす労働者たちの姿を忘れられなくなる。これがすばらしいのだ。

2つの異なるサイドにいる男たちの対立。どちらのサイドにつくか、と言うことで翻弄されてしまう男女の仲。
悲喜交々の物語はラスト、大団円を迎える。ルノワールの河のように偉大な映画である。
 

Hutsle
Robert Aldrich
 1975   120min

どんなことがあってもしっぽを出さない、狡猾で用意周到な権力者たちへの調査を、彼らに対する憎悪を半ば捨てた刑事の目線を通して追って行く。しかし、彼の中での善悪の葛藤(それははっきりと「Youユre a right-or-wrong man.」と非難され「Yes, I live in right-or-wrong world. But I came to understand peopleユs weakness. I donユt judge people.」と言い返した台詞に出ている)、娼婦を続ける彼女を止めるだけの経済力のないふがいない自分への憤り、そして権力者への憎悪が、映画全体を通して貫かれたとき、最後、抑圧から爆発へと突き抜ける瞬間は圧倒的な迫力を持つのだ。Burt Reynolds が死んだ娘の父親のため、一芝居打つあたりがアルドリッチがもっとも見せたかったところであろう。圧巻だった。

主人公がダブルスタンダードであること。それはドラマを面白くする。
表ではどうしようもないと言っているが、本当は正義愛し、権力者への憤りを誰よりも強く持っている、など。

支配的で、もうあきらめるしかないと誰もが思っている既成概念をひっくり返す。たまりに溜まった鬱憤をひっくり返す。何か熱いものを持つ男たちが常識では考えられないことを命を懸けてやる。それがアルドリッチだ。その瞬間、ボーッと見ていた観客はガバッと立ちあがり、興奮し、熱狂するだろう。人間の無意識をつく映画。だれもが身に覚えのある日常的体験を積み重ねて描き、そこにある人間の真理を一気に暴き、ひっくり返す。それは面白いに違いない!何かためていたものをひっくり返す。

始まりのスクールバスはすばらしい。
元気のいいオヤジと、子供たちはいかにもアメリカ的で楽しいではないか!



10.5.03

東京物語
小津安二郎
1953   松竹大船

もう数えきれない程見ているはずだが、再度ニュープリントを見る機会を得た。

笠知衆の発話を大画面上正面から受け止める時、そこには心底伝わってくる映画の力がある。
説話空間のPurity に向かって画面を組織する、そこから小津の独特の目線構図が発生したのではないか。

それぞれの世代に、それぞれの考え方があり、年ごとにそれが推移してゆく、その世界観を映画を通して描くこと、それが小津の映画である。

生まれては見たけれど
小津安二郎
1932    90分

悲しみの中に笑い、笑いの中に悲しみがある、その現実の両面性を深く意識した現実描写が「生まれてはみたけれど」である。

最初、郊外に引っ越してきたという場面からなのだが、単なる引越しではなく、ぬかるみにはまったトラックを押す子供と父という設定は、ひねりがある。シンプルな構図 4:3の画面で、ガキ大将(亀吉)グループと主人公の兄弟の対立を示すところはいかにも美しい。

上司にぺこぺこする3枚目の父親が「偉くない」ことに怒り散らして、泣き疲れ寝てしまう兄弟。夜中、その二人の寝顔をのぞく闇の中での夫婦の姿。なんとない日常だが、とてもいいシーンだ。矛盾、反抗、戦い、落胆、ことなる視点、小さな救い、仲直り、遊び、新たな日常へ、など、この時点で小津のストーリーテリングは完成している。人生の悲喜交々を日常の中に描いてしまうこの映画は傑作である。

親に反抗した後の翌朝、仲直りがおもしろい。単におむすびを食べるだけなのだ。1ショット、父、兄、弟が並んでおむすびを食べる構図、これだけで仲直りがはっきりする。構図にならべて人物を配置することが、特権的な説話機能を持つ。この瞬間がすばらしい。社会のある一つの矛盾を取り上げ、それをありきたりの日常の構図に当てはめ、わかりやすく示すこと。「お父さんはなぜたけちゃんのお父さんより偉くないの?」という子供の単純な疑問を、社会の根幹的な矛盾「資本主義社会のヒエラルキー」につなげてしまう、この手腕が「偉大」なのである。

香川京子による小津の言葉「この世の中には汚いこともたくさんある。それを汚いままでなく、美しい世界の中で描きたい」小津の美学である。しかし、笑い、遊びの中に深いテーマがぐさっとくる瞬間がある。そのコンビネーションが人生であり、小津にとっての映画なのだ。



10.3.03

秋津温泉
吉田喜重

一つの密度ある瞬間が人生にはある、その密度を生き抜くことを一度あきらめたものが、人生の契機そのものから見放され、その若かりし日の一瞬の炎をずっと持ち続ける女、そして世間でもまれて、その情熱そのものを失ってしまう男。どちらがいいということは抜きにして、情念の世界と現実の対立という普遍的なテーマをとことんかつ、シンプルに描いているところにこの映画の強度がある。そう、これは強度の映画である。

女性と男性、その果ていなく続く、しかも先のまったく読めない時間、二人の微妙な感情のふれあいを延々と描く、そしてつぎにどうにでも転がってしまう、どうにでもなっちまうという危うさ、緊張感の上に映画の持続があるという点がこの映画の強度なのだ。そこがすごい。まるで、永遠と綱渡りをさせられているような緊張感で、観客は二人の関係を、そのくんづほぐれつを見届けるのだ。象徴的なのが、最終電車に結局乗らずに近くの宿に泊まったとき、部屋の電気を自分から消したくせに、男が近づくと逃げてしまう岡田茉莉子。1ショットで、オフスクリーンをふんだんに使いながら、男が絡み付き、女が2,3歩逃げるというアクションを3回続ける。とことん拘った映画的細部として突出している。映画作家吉田喜重の才能は、この男女の濃密な時間とどうなるかわからぬ緊張感を延々と見せ続けたこの一点において結晶化する。男女の絡み合い、また離れ、また絡み合うのを、キャメラの引き、寄り、移動、アングルの駆け引きと見事にシンクロさせている。ラストの桜散る渓流での自殺のシーンもその真骨頂だ。この場面は何度も見直してもその切れ味と繊細さに引き込まれる。

Inspiring だったのが、横から捕らえた移動ショットの反復使用。そして、桜、血、渓流、着物の色の構成。そしてなんといっても、渓流からの風で下から上に舞う桜だ。あれがすごい。感情が高まった時に、不意に視界に侵入してくる映画的細部は、効果的だ。あとブロッキングも木につかまってぐるっとまわったり、俯瞰ショットで思わぬ方向から人が出入りしたり、横移動ショットで画面のしたからまたは上から人が入ってきたりする空間的な遊びはおもしろい。



5.16.03

Une femme est une femme.  1961
JLG

ゴダールの初期の傑作。初のシネマスコープ作品

主人公が歌わないミュージカル・コメディというアイデア。
音楽の寸断、アンナ・カリーナのハミング、、、発想がキレにキレている。

ベルモントの名は、アルフレッド・ルビッチ。どう考えても、ヒッチコックとルビッチだ。そして、設定はまさしくルビッチの「生活の設計」の男2人と女一人。映画を浴びるように見ているときに思いつくようなギャグが満載だ。



10.3.03

Station Agent

「You don't need to talk. Just eat. I'm totally fine with that. 」
この台詞がすばらしい。

社会からのIsolation に生きている二人、Fin とOlivia。しかし、そのisolation の扱い方が二人は違う。Oliva は心理的傷害のために隔離して生活し、苦しんでいるのに対し、Fin は一人であることがOKである人間だ。"He's just true to himself. He just doesn't put anything what he isn't." 対照的に社会と接し会うことに喜びを見出しているJoe。その3人の物語である。アメリカ社会、いや現代社会では本当の自分のままに生きることがどんどん困難になってきている。つまり、社会が見る自分の姿  と自分が見る自分の姿が一致しないのは、(認知・思考障害がないかぎり)自分のせいではなく、社会の側に問題があるということだ。差別、偏見とはそういうことだ。

しかし、物語に集中するのはいいが、映画の他の多くの要素への完成が全く欠落してしまっている。今のサンダンスにありがちな傾向である。



5.14.03

「ピアニストを撃て!」
F.トリュフォー
Shoot the Piano Player  1960

弟が、何かやばいことをマフィアに絡んで、それから逃げている。夜の酒場、ピアニストをしている兄貴の元に転がりこんで来る。かくまう兄、何とか逃れる弟。
そして兄貴の物語。隣に住む愛人、その子供。妻との不仲。憧れている女。
妻は、彼を有名にするためにプロデューサーと寝る。
そのことについつえ夫の許しを得られず、彼女は自殺。ーーなどなど、脱線した話が続く。

それなのに憧れている女との恋愛話に、さも何もなかったかのように、話が引きもどされる。

そして最後部分、やっとメインの話に戻る。
郊外の雪山の山荘に隠れる兄弟二人を訪れるピアニスト。その新たな恋人を連れてきたが、向かう途中、雪山で車を降り、分かれる。そこでも例の独白が挿入。物語的心理描写が足りず、とにかく事実だけが先行する話法は、なんとかつじつまを合わせているとしか思えない。しかし、「突然の炎の如く」ではそのつじつま合わせの技法が、洗練され、なにか芸術的な統一性・作家性を示すまでになってきている。

途中まで来てしまった恋人はやはり、ピアニストを追って山荘に来る。(ところで、兄弟同士で話をして時間をつぶすあの山荘は、「Jules et Jim 」に出てくる山荘ではなかったか?雪山の山荘というヒッチコック的な設定を意識してのことだと思うが。)悲劇の結末。彼女がうたれ、雪山を滑り落ちてゆく。このようなシネマティックな遊び心というか、細部が面白いのだ。走り抜けるときの疾走感を強調するクローズアップ、別途の上の男女2人を素早いディゾルブで見せる遊び心、MTV世代となった現代ではもう新しくはなくなったがあのような映像的な実験も面白い。

主人公の心理描写よりも、説明的な独白により映画は突き進む。物語はたいがい無視され、映画はどんどん螺旋的に勢いづいて回転してゆく。それが、トリュフォーなのだ。全体的な視点よりも、細部の映画的快楽を大事にし、そのまま突き進む。その真骨頂が「突然炎のごとく」なのだろう。(この日本語タイトルも素晴らしい。)「400Blows」の牛乳ビンをこっそり盗んだり、Jwalkしたり、神父に軽口をたたいたりするいたずらのガキンチョもそうだ。ルビッチから学び取った「ほんの一瞬のシーンでも血を吐くまで考えつくし」て、おもしろいひねりを見つけだすのだ。



7.7.03

The Quiet Man
John Ford    1952   129 min.  4:3

John Wayne, Maureen O'hara, Victor McLaglen , Francis Ford

この大らかさはすばらしい。
大家族的な映画空間を作り上げてしまうジョン・フォードの腕はルノワールと並び、映画史上最高だ。
小津にも共通するのが、ジョン・ウェインとマリーン・オハラが一緒に買い物に行くシーンなどの牧歌的なのどやかさ。あのアイリッシュの村の人物たちは、まるで小津映画の人物図鑑をみているようだ。ラスト、村全体を巻き込んだ殴り合いイベント、それが祭りにまで発展してしまうところは、まるで想像の域を超えてしまっている。そこにフォードの偉大さが在る。

いい人間ばかりが出てくる大家族的な映画空間。一人の映画作家の油が乗り切ったときにできる仕事だ。



6.22.03

Friday Night
Clare Denis   2003    90 min.

It was sensual-feeling-oriented film.
It ended up with just a story of one womanユs one-night-stand, although Clare Denis employed the most sensual way of portraying this love affair.
It was romantic, but that's it. Nothing more than that. She sets up the great introduction scenes : A woman who packed her stuff to move her boyfriend's home to start their new life and she got stuck in the terrible traffic jam caused by subway strike. Millions of people stuck in their cars on the streets. That idea itself and the cinematic style she articulated was very unique and interesting so that I was really intrigued in the first half.

The camera angles, which were most of the time limited to partial views on human bodies without showing the wide shots, were stylized so perfectly that they show director's cinematic sense and also, it formed an unique sense of the space and time. Especially the time seemed so stretched and flowy. The limited use of subtle sound was very good, too.

Sensual & depictive succession of images was very interesting. But I wish she could think a bit more on what would be the result/ destination of that beautiful montage. It ended up with just a sex scene of a man and a woman. It was too straight forward. If there were more humors or suspenceful moments, we would have been more engaged with the film.

It was too straight forward to portray a long sex & dinner & sex scene of one couple.
Up to the middle point (car in the jam scenes), it was unpredictable. The film retained anything-could-happen-next atmosphere. But after the two went to hotel and finished their first round, the film sank.


6.13.03

The Good, the Bad, and the Ugly
American Screening version

イーストウッドが西部劇史上初めて、相手を待たずに「抜いた」ヒーローである。



6.10.03

霧の中の風景
theo angloplos     
1988 125分

救いのない現代に迷い込んだ姉弟二人。
その現代の悲劇を徹底して味わわされる。

最後、ようやくドイツ領に渡り、草原の中に一本の木立を見つけ、その元に歩き出し、次第に駆け寄ってゆく二人を移したロングショット。
全く抽象化。ここがドイツだとわかっている限り、どんな風景でも構わない。 分かりやすい、またはありきたりのドイツのイメージではなく、何をシネマとして造形するかということを考え尽くすこと。それがアンゲロプロスなのである。

画面外の人物に対する視線、その人物の画面外の物音。例えば、駅のホームで電車代のために少女は軍人らしき男に金をくれという。男は、画面の外と中を言ったり来たりして、タバコの煙を曇らせながら、何か思い立ったように画面外へ去る。少女はその男を見つめる。カット。次のショット、ロングで貨物列車の屋外車庫。

このような画面の内外の音声、視線の交通がシネマを理解している作家ならではの物であるということは、一目瞭然だ。

しかし、クロースアップの驚き、新鮮さ、凛々しさをこの映画空間に導入しているゴダールの方が、さらにセンスが尖鋭していると言うべきだろう。自分もクロースアップの凛々しさを次の作品では是非導入したい。

アブディカリコフ、アンゲロプロス、候孝賢の自然と調和し、天候をつぶさに観察しその変化をすくい取りながら、ゆっくりと時間を描いてゆく。そのような大河のような視線は大事。

アンゲロプロス・インタビューより。

現代の映画 ーー 海中に浮かぶビンのような存在
「思想的葛藤」が存在しない時代。
誰もが、資本主義社会の中流の裕福さで満足しきっているというだれきった、切迫した対立のない社会。
全てが中性化されてしまった。

これがアンゲロプロスの言う「歴史の沈黙」 ー対話を生み得た内的葛藤、イデオロギーの対立
それが若者のエネルギーを爆発させ、ぶつけることができえた対象でもあった。
それが失われた若者はどうするか?我々の課題である。



6.4.03

M
Friz Lang
1931
主演:Peter Lore

ドビュッシーの「ペールギュント組曲」
タタタタタタタタン、タタタン、タタタン、タタタタタタタタン、タタタッタン。
この口笛が不気味に響く。

最初の殺人の描き方が素晴らしい。
少女Elsie Beckmand がストリートで遊んでいる。毬をつく彼女をキャメラはドリーでフォローし、やがて太い街頭に張られたWanted 張り紙に毬をあてはじめる。そこに、男の影がフレームイン。Elsie に話しかける。

その次、口笛が聞こえ、風船を買ってやる。
すべてはオフスクリーンだったと思う。無駄な物は見せない。盲目の風船屋だけを画面は示し続け、後は画面外の音で処理。これが素晴らしい!

心配な母親。夕方になっても子供が帰ってこない。時間が刻々とたつ。
「Elsie, Elsie!」→お皿→草むらに転がる毬→電柱に絡まる風船

これで殺人が暗示されるのだ!

そして、後に同じ盲目の風船屋が同じような構図で、画面外の口笛を聞くことになるのだ。その時も全く風船を買うアクション、幼児殺人犯と新たな少女は画面に写らない。

暗黒街の連中(乞食、売春婦、マフィアなど)による模擬裁判は、
一人の人間を処刑に追い込む大衆心理の恐ろしさ、または
明らかに処刑すべき異常者を保護してしまう法と権力機構のまどろっこしさ、理不尽な停滞への批判
どちらと解釈すべきか。おそらく最初の解釈だろう。
現代的な法(ナチス前ワイマール)の精神と直情的な大衆心理(実はこれはナチスへとの連なってゆく)の対立と共存という当時の社会をラングは描き出している。

警察の会議、暗黒街のマフィアたちの会議のシーンが長すぎたかもしれぬ。
90分にできた作品。



6.1.03

Touch of Evil
Oson Welles

Reckless Moment
Max Oplus

The Big Heat   1953
Friz Lang

シンプルなヴィジュアルあるでみせる作劇術、ストーリーテリングの才能。
実務的な会話は最低限で、もし可能なら、アクション、または男同士の脅しあい、で魅せ、その他は、ユーモアをまぶした会話にひねってしまう。
そこが、ラングの飛びぬけた才能なのだ。それが文句無しに面白い。
バーテンの男を脅す刑事、しかし何も情報は得られない。かえる。
バーテンは店内電話ボックスに入り、「闇のドン」に報告をする。
電話が終わり出てくると外に刑事が待っている。
"Who are you talking with?"と待った無しの質問。答えは;
"My mother." ――思わず吹き出してしまう。
一連の詰問の最後に
"Tell this to your MOTHER" と捨てぜりふをはいて去る刑事。

Mise-En-Scene 会話のキレ、ユーモアすべてがそろって映画の「熱狂」となるのだ。この熱狂こそ、映画なのだ。トリュフォーがルビッチに狂ったように。

最初、銃のアップから始まる。―Touch of Evil の爆弾のアップから始まり、トラッキング・バックで全体状況が見え、ズバッと物語の中心に入るこの直接性――ラングとウェルズの感性をつなげる映画言語のセンスである。

刑事と美しい妻とのシーン、何気ない家庭の食事シーン。その演出もすばらしい。食事、シガー、ビールとすべてシェアする、キャメラの動きと俳優のアクションが流れるように組み建てられ、何気ないシーンがちょっと気のきいた面白いシーンとなっている。これが「傑作」たる所以だ。一瞬たりとも無駄にせず、トリュフォーの呼ぶ「血を吐くはくまで考え尽くした」演出だ。そして、その「何でもシェアする夫婦関係」はクライマックスで、妻のことを話すのを拒んだ刑事の口から再び話される。憎いまでの演出で、簡単に泣かされてしまった。

Mrs. Dunkins 夫人―最初に無表情でだんなの自殺を見送り、刑事の前で演技で泣いたーーがひねりのきいた食わせ者として描き、刑事と上層部との確執、一筋縄で行かないマフィアのドンなど、リアリスティックな人物描写が、同時にわれわれのフラストレーションをためるという劇的効果もある。ウェルズもそうだが、一筋縄では行かない、素直ではない食わせ物がこのような刑事もの、Film Noir を面白く、豊かにするのだ。

あまりにもショッキングな妻の死、その時娘に本を読んであげていた刑事。
(その本を読んであげるシーンが後にも出てきて、ぞっとする。)その復讐心、妻を守るために鬼となる刑事は、ウェルズのジャネット・リーを探すためにバーで「I'm not a detective. I'm a husband now!」と暴れたCharlton Heston と類似している。

刑事が、妻と子供とすんでいてが家を後にする瞬間、空となった室内を見回す瞬間、最後グロリア・グラハムに向かって妻の話をしてやる瞬間など、ぐっとくるインテンスな瞬間は、ラングの緻密な計算と、センスによるもの。

一人の男の底に在る感情(この場合、静かな怒り)にじっくりと 迫るのがラングなのだ。

嫉妬のあまり、グロリア・グラハムに熱湯コーヒーをかけた男など、人間感情で動いてしまう瞬間がある。そのような動作を余さず捉える人間洞察が深い。



5.22.2003

「日曜日が待ち遠しい!」トリュフォー  1982   Vivement Dimanche!

ファニー・アルダン、ジャン・ルイ・トランティニャン

解雇されるはずだった秘書と不動産屋のラブストーリー・サスペンス。

観客を何度も騙すテクニックは、ヒッチコック以上に素早い。機転がきいてかつ、ユーモアあるトリュフォーの性格が乗り移ったような展開。ウィットに溢れたセリフもおもしろい。

観客をサスペンス探求の迷路(それは直線ではなく、まさしくいろんな要素が交錯する迷路!)にテンポよく導き、引き込んでゆく。そのため、徹底して練り上げられたプロットに挑戦している。

最初、不動産屋ベルデルだと思っていのが、少しずつ変わってきてどうやら、他に黒幕がいるらしいと分かってくる。解雇され不動産屋を毛嫌いしているはずだった秘書は、事件にどんどんハマってゆく(それは最初、馴染み親近感からだろうと理解していたのが、余りにもなぞめいている、しかも裏があるらしい事件の様相のため、彼女は真相解明に没頭するようになる)

そして、競馬、不動産王、クラブ、売春、ヘアサロンを牛耳るマスリエという男に疑いがかかる。
で、クレマンの裏部屋を見つけた秘書。
それを不動産屋に報告するのかな、と思っていたら彼は、クレマン(弁護士)の元に行くという。
彼女は、引き留める。また、一緒に行くという。しかし、不動産屋は巻き込むわけには行かない、そこで、彼女は愛を告白。
(我われは、彼女は「なんとなく怪しい」クレマンの元に彼を行かせたくないのだろうとなんとなく思っていると)
二人の愛情は燃え上がり、一緒に行こうと言うことに。「日曜日が待ち遠しいわ」
そこへ、警察が乗り込んできて、秘書が不動産屋を騙していた?!
トリュフォーはルビッチのように、何度も何度も考えつくしたひねりを加え続ける。
実は、彼女と不動産屋、刑事はグルで、(おそらく不動産屋は警察への途中に全てを聞いたのであろう)弁護士を最後に迎える罠を警察で仕掛けるチームとなるのだ。
この芝居は、弁護士が「メシを喰ってくる」と警察を一次立ち去るまで、続けられ、秘書が2階の奥からウソ電話を刑事にするあたりまで、ずっと我々は宙づりのままだ。これが面白いのだ!!
彼女は、不動産屋とともに警察に保護されたかっただけなのだ。しかし、トリュフォーはそれを一筋縄では我々に教えてくれないのである。我々を不安にさせ、驚かせるために、あの手この手で騙してくるのだ。秘書に、不動産屋に向かって「弁護士の元に行かないで。彼こそ真犯人なのよ!」とは絶対言わせず、いきなりラブシーンになる。映画のための徹底したご都合主義。そこが感動的だ。
最後、電話ボックスが警察に包囲され、カンで気づき、電話で自供する弁護士が、自殺するというシーンも素晴らしい。
面白いのは、「おまえはどっちの見方なんだ」と刑事が聞いたように、ファニー・アルダンが何故、誰のために真相解明やっているのか、宙づりにされている点。ーそれが、不動産屋への愛で、納得する。
(しかし、それも一瞬刑事との茶番で、ウソだったのかと思ってしまうが。)
あくまでもルビッチ。
外部から、遠目にものを観察する。ーー丘の上の不動産屋の家、マンションの上での男同士の争い。映画館でチケットの売り子は中に入って、しばらくして出てくるとナイフが背中に刺さっている。
そしてヒッチコック的なのは、秘書が夜一人運転する車、の正面ショット、とPOV ショットの連鎖ーーまさしく「めまい」だ。
遊び心に溢れたシーンをあげればキリがない。
2人で電話を並んでして、探りを入れる匿名電話を交代でするシーン。(それも映画館のストーリーの案内を聞いたりすると言う、トリュフォーらしいネタ)探偵事務所のヘッドに会いたいから、会議中の部屋をバンと開けて、いきなり用件を話す。
警察の目をごまかすため、街頭でキスする二人「いつか映画で見たのよ」
最初の犬と一緒に歩くロングトラッキング
最後、地面に落ちたカメラのレンズキャップを子供が蹴り会う足と地面のショット(あっち行ったり、こっち行ったりするのは犯人が交錯した映画の展開を象徴している)
最後の弁護士をいらだたせるための、秘書から刑事への時間稼ぎ、ウソ電話(刑事の妻の振りをする)
他にも、サイレントな遊び、画面上での交換など面白い細部があった。
例えば、カギを落とす、それを拾うことでコミュニケーションを始める。
などなど、日常的な中の小さなハプニング、アクシデントが面白い。
これらの物(電話など)のアップ、足のアップ、視界が遮られたPOVショット(便所の天窓から隣の部屋をのぞくなど)はすべてヒッチコックだ。
ルビッチのひねり、ヒッチコックの宙づりに惚れ込み、実践した作家トリュフォーの傑作だ。

 

 

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