DIARY 2004



 11.21.04

Moments Choisis Des Historie(s) du Cinema
(world premiere)
JLG
85 min.

ゴダールならではの手法で詩と映画史、絵画史、思想史とを織り込んだシネ・エッセイ。
言葉、詩、そしてイマージュ、音声によって、言語には表現できない至高の領域に意識をいざなう。思想と映像、音声のコラージュ=モンタージュの天才であり、前人未踏の領域を悠々と切り開いている。
このシニフィエのリゾーム間のリンク体を如何にして形容できようか。
もちろん形容できないからモンタージュなのであり、我々に許された反芻行為は、ひたすら覚えているイマージュを列挙してゆくことだけかもしれない。

裁かるるジャンヌ(ドライヤー)、アウシュビッツ、上海から来た女(ウェルズ)、第2次大戦、サンライズ(ムルナウ)、広島、イスラエル、ノスフェラトウ(ムルナウ)、鳥(ヒッチコック)、緑の光線(ロメール)、イスラエル、ジュリー・デルピー、小津、フリッツ・ラング・・・

画面の中央から繊維に色がしみこんでいくかのように展開してゆくディゾルブ
白黒の画像とカクカクと動くカラー映像のユニークな組み合わせ
遮られた部分的視界の美しさーーー特に、モノクロの4:3の画面は素晴らしい
フィルムのスピードを止める、スローモーション、ビデオによるカクカクという変速映写・・・一つの人間の身振り、アクションがとても魅力的に見えてくる。それがシネマの力なのだ、というかのように。例えば、目をつむる女性、彼女が両手で顔を覆う、その仕草がなんと美しく、映画的であることか。

痛烈なアメリカ批判をも含んでいるが、アメリカに特定化することなく、あくまで全体主義・ナチズムの歴史の中で位置づけている。



11.18.04

Pale Rider   
1985
Clint Eastwood
116 min
(3度目)

人影一つ見えぬ西部の街。一人の男が通りの真ん中に立つ。
明らかに「悪者」の人相の男たちがぞろぞろと建物の中から出てくる。
彼らが街の中央の通りに立つと、どうだ、そこには男の姿はない。
黒い帽子がぽつんと残されている・・・

クリント・イーストウッド演じる"Preacher" と呼ばれる宣教師は、異様な眼光を放つガンファイターだった。
通りから姿を消した直後から、彼の殺戮ショーがはじまる。
我々は彼の姿を見つけることができぬまま、眉間を打ち抜かれて倒れてゆく男たちを、一人、また一人と目にしてゆく。圧倒的に強いその男は数年ぶりに再会した宿敵の殺し屋をもいとも簡単に倒してしまう。

彼が強いのはとっくに判っている。
いかにその強さを圧倒的に、かつ驚嘆を交えて描くかが映画なのだ。

冒頭のモンタージュ。
大量の馬が西部の草原を滑走する。それと谷間にある村の平穏な日常が交互にモンタージュされる。
遠くに聞こえる馬の疾走音が次第に近づき、とうとう、丘の途中にある村へと降りてくる。傾斜を利用した構図で馬が駆け下りるところを捉えるそのキャメラが素晴らしい。村人は一言も交えることなく立ち上がり、近づいてくる馬の蹄の音の方向を一様に見つめる。イーストウッドは、アウトサイダーが進入する時の視線劇こそウェスタンの神髄であるということを知り抜いている。実際、この映画では全ての対立は言葉でなく、視線の対峙によって示される。

圧倒的におもしろい細部を列挙しよう。

●ハンマーで削岩作業に打ち込むことを通し男たちが結束してゆく様を、言葉なしで、視線劇とアクションだけで表してしまうーーここが素晴らしい。
●屋内の暗がりの中、窓から差す斜光がリアリスティックに一方的な光線として描かれている。そこに立つ人物の順光、逆光のコントラストが美しい。
●水がバーーっと噴出している採掘場の散水装置(?)ーーこの勢い、荒々しさ。
●アウトサイダーが初めて村に進入してくるとき、屋内の人物が外の人物の様子をじっと観察している。かすかに聞こえる音声により繋がれた空間をつなげる視線の交錯。
●本当に「Good Spirit」の男、その男を助けてやろうというイーストウッド
彼が焚き火の周りで一人語り、村の男たちを納得させるシーンは素晴らしい。
●焚き火の周りに悩ましげな表情の男たちが集まり、ぼそぼそと議論を交わす。
●ラスト、ダイナマイトをほうり投げ、金鉱の散水装置、用水路を爆破してゆくPreacher と相棒の男。
投げる、爆破、投げる、爆破、というアクションの連鎖が突出していておもしろい。
●そして最後、街での決闘。
真ん中の通りから突然姿を消したイーストウッドを探すべく男たちは、一つ一つの店を探索してゆく。
サスペンスは長ければ長いほどおもしろい。その宙吊りの時間の大胆な操作が、イーストウッドの傑出した才能だ。



10.9.04
Land of Plenty
Wim Wenders   

●確かにテーマ、主題としては一貫しているのだが、(政治的)メッセージ性と映画がうまいことミックスされていないところがある。娘と父親のストーリー(それは手紙によって、語られる)がおまけ的に最後の方で付け足されてゆく。そのバランスを実験的に、政治の方向へと舵取った。ヴェンダースなりの2004年の映画なのだろう。敢えて、いつも通りのロードムービーにはせず、新たな方向を探ろうとする姿勢は共感する。

●アメリカ人による9.11後のイスラム世界に対するステートメントを、LA にすむWenders は作り上げた。それも政治的メッセージ60%で、詩的な要素40%として。

●ロスのダウンタウンの貧困街、ゲットーを映す、「ベルリン天使の詩」のようなご都合主義のロケーションの移動、突如とした出現は逆に素晴らしい。

●Wenders がイチバンやりたかったのは、パキスタン人のトレーラーの中で完全にすれ違い続ける、男と娘、そしてパキスタン人のディス・コミュニケーションではないだろうか。「He was a really good person. I would do anything to help you. 」といって泣きながら話すパキスタン人。しかし、男としてはそのパキスタン人そのものを疑っているわけで、味方にしたいとは思っていないのだ。そのすれ違いがアメリカの現在なのだ。



9.12.04

F. W. Murnau   SUNRISE  1927

傑作中の傑作。不器用で、誘惑に流されてしまう不完全な人間が、過ちを犯してしまう。まったく回復不可能に思われる夫婦の関係、妻を意図的に殺そうとしたわけだから、どう考えても関係は修復するはずがない。そこが人間の不思議なところ。エモーションが、不可能と思われていた障壁を取り除き、奇跡的に女は男を許す、奇跡を起こすことができるムルナウは間違いなく天才だ。


The Battle of Algiers

Triology - Weeping Widow , Angeloplos
Walk On Water - Eathan Fox
Day on the Planet  - Yukisada
The Blues   Clint Eastwood
The Blues  - The Soul Of A Man - Wim Wenders

The Return   Andrey Zuyagintsev 2003
Alila    Amos Gitai 2003

Monalisa Smile



2.28.04

小津安ニ郎  「東京暮色」 1957年  松竹大船 

● 人生の悲喜こもごもをすべて丸く包み込んだと言う感触。映画の時間を体験した
後のその感触が素晴らしく豊かである。
● 人間各々が独自のペースで生きているのがこの世界。
  男女が(有馬稲子と彼女を孕ませたろくでなしの軟派男)喧嘩別れしたその場に
のみ屋のオヤジが現れ、「おやおや、大変だねえ、どうしたんだい。(酒を)ちょっ
とこぼしちゃったい。」といい、シリアスに落ち込む男の横で呑気に石油ストーブに
あたりながら「近ごろの女は強いからね、お宅も大変だねえ」と呑気にいう。「なん
でオレはこんなに真剣なのに世の中は何も分かってくれないんだ!」ーーそれがこの
世界なのだ。世界にはとても違う人がいろいろいて、各々が別々の文脈で行動してい
る。それが絡み合い、世界を豊かにしているのだ。シリアスさとのんきさ、悲しみと
笑い、それが同時共存しているのがこの世の中である、という世界観ーーそれを丸ご
と包み込もうとするのが小津とキアロスタミ。
その他の例:マージャン屋、シリアスな場面の横で「ほれ、それポン」「ああ、そりゃ
おどろきましたな」と呑気にいってるおっさんども。
● ラスト、原節子と彼女を捨てて男と逃げた母親・山田五十鈴の再会の場面、彼女
が死んだ原節子の妹(有馬稲子)のための供養の花束を持ってくる場面。「愛してい
るけど、憎い」「愛着があるからこそ捨てられたことを許せない、けど母親だ、おか
あさんと呼びたい、けど許せない、悲しい、素直になれない」というミックスした感
情をそのまま画面に定着させること。



"My Firend Ivan Lapshin"     Alexai Germann

-Long wide shot in which Lap[shin picks up a bucket, then cuts to his bust
shot in action. -- What a shock!!
peacefuk, quiet master shot that suddenly cuts to CU in action.

-- Scene whhere Lapshin shoots the robber. He throws a bukket to a shack in
the mist  which we see far away in the shot. then, in the distance we see a
guy comes out from behind the shack, shouting "Don't shoot, I'm hurt. Don't
shoot!" We see him very small far away. Then  Lapshin shoots him in the same
shot. -- Visual Drfama utilizing the FAR-NEAR contrast in the frame.


Eternal Sunshine of Spotless Mind   2004, Michel Godrey
どこかartificial な設定、Brain surgery, alternative world という非現実的なセットアップが、映画自身をハリウッド・エンターテイメントの枠に押し込めてしまう。記憶の中か、外かも分からない両義的なモンタージュは皆無で、空想的な設定とはいえども画面・画面が何を意味するか明確に説明されている。そこがあっけらかんとした笑いを生む反面、映画としてエモーションは何も残らない。(なぜなら最後に説明され尽くしてしまうからだ)チープなキャメラ内エフェクトで過去のシーンを演出した点は見事だ(Barnes & nobles で書籍の色、字が消失してゆくところなどは面白い!)すべてを明快に説明せねばならないというコードに刃向かうのが、インディペンデントの現在の在り方だと多う。


Dogville   2003     Lars Fon Trier
コンセプト自体はおもしろい。人間とはおろかで醜いものだと幼い頃からタカを括ってしまっているギャングの娘その名もGRACE(ニコール・キッドマン)がアメリカの田舎の小さな村、で慈悲愛についての実験を行うというもの。女性の中に神性を見いだしたBreaking The Wave, Dancer In The Dark に連なる面もあるが、今回はその神聖をフェイクとして扱うという構造である。その実験が、コントロール不可能な人間感情のもつれ、しがらみに絡め取られてしまうというので有れば、面白かったかもしれないが、何せこのナレーションベースの語り方が興ざめにしてしまう。人間の奥底に潜む残忍性、嫉妬、憎悪、矮小さを露呈させようとする(Idiotデでも見られる)Fon Trier のタマはでかい。



Orson Welles
Jane Eyre 1943  Robert Stevenson
Joan Fontaine のGoverner とWelles のMaster 役の恋物語。Welles の妻は古い中世屋敷の棟の中に閉じkめられており、それがサスペンスとなっている。Joan Fontaine のクローズアップが美しい。


Tomorrow is Forever  1945 Irving Pichel
一度第二次大戦で死んだとされていた男(welles )が、戦後オーストリアの化学学者としてアメリカの薬品会社で働くため移民してくる。そして彼の未亡人はその薬品会社の社長と結婚し、家庭を築いている。メガネの奥の表情も読みとれない、片足を引きずっている老科学者役は、エニグマとしてのウェルズの経歴をさらに豊かに飾る。最後、老学者が元の主人であったと一時は疑った元妻は、結局その疑いを忘れ、老学者は死ぬ。彼女はwelles の養女(7 歳のナタリー・リーウッド!)を引き取り、そこには戦中彼女が夫にあてて書いた手紙があるという場面の冗漫なキャメラワークなど、二流の監督だと言わざる終えない。

Mginificence of Ambersons  -- Orson Welles  1942     2.27.04

Montage Sequence of buildings in his town were great! It was for showing the
time passed and the description of the mood of the city's poeple.

Man In the Shadow   1957   Jack Arnold
Jeff Chandler  -- Friz Lang "The Big Heat"を思い出させる。

I'll Never Forget What's 'is Name   1967   Michel Winner
Bout De Shoufle  の影響が大きく見られるが、そこまで突出できなかった駄作。

The Stranger    1946 Orson Welles
Edward G robinson (Little Ceaser, Double Indemnity) のマシンガンのような早口は素晴らしい。どこかで見たことがあるとおもったらDouble Indemnity でも同じく探偵役であれだけ早口でまくし立てていた。

The Lady Form Shanghai    1948  Orson Welles, Rita Hayworth
Welles の女優のクローズアップを撮る技術は突出している。演出、集中力があのインテンスで官能的なショットを撮るのだ。


The Lady Without Camelias, 1953, Michelangelo Antonioni
浮気をしたばかりに人生を棒に振る若手大女優。元夫とよりを戻そうとしたときには、もう既に盛りを過ぎていた。最後、3流プログラムピクチャー(エジプトもの大河ドラマの王女役)を引き受ける。美しいが、悲しげな表情を湛えた女Lucia Bose がいい。しかし、シーンの入り方、終わり方は通り一遍で(フレーミングは素晴らしいが、Mise-en-scene は面白くない。何故か男女がみな「暗い」のはアントニオーニらしいキャラクターである



Okraina   1933   Boris Barnet   98 min
第一次大戦後のソ連、つまり戦時下の共産主義国の中で、Anti-war のヒューマニズムを描くバルネットは突出している。この時代に一人、映画共和国を描き続けた異才・天才 映画作家は、どれだけ同時代の人間の共感を得ることができたのだろう。ロシアの片田舎に迷い込んだドイツ将校が一人ベンチに座り途方に暮れている、そこへロシアの田舎娘がのこのこ現れ彼に惚れてしまう。着飾って日傘まで差し、ベンチのもう一つの端に座る。ベンチの上の互いの距離が徐々に縮まるが、突然ドイツ将校は立ち上がり、端にいた女の子のベンチはひっくり返る!映画ではないか。


Straw Dog   1974 Sam Pekingpah     Dusitin Hoffman
狩猟用の鉄トラップは何度見てもスゴイ。ブラをつけずに田舎の村を歩き回るブロンド娘、など細部がペキンパー(=興奮せずには見れない!)である。

My Architect  2003
何もリスクを負わないドキュメンタリーの話法は、はっきり言ってタイクツだ。どう落ちるか最初から読めてしまうのはいかがなものか。



DISTANT
スクリーンに息づく静かな刺激、それを余さず捉える映画的感性。演出の呼吸、視点の選択、撮影、照明すべてが巧妙でかつ、抑制が利いている。じっくり落ち着いて、豊かなスクリーンの表情をとらえる視線の確かさ。


Silent Waters
2003  Pakistani Director  Samir
ドイツ・オランダ・フランス・パキスタンの共同製作。ロッテルダム、ベルリンの指導が入っているだけに、ストーリーが西欧的話法に収められている。そこが物足りない。



"The night of the hunter" 1955  94 minites
directed by Charles laughton
Robert Mitcham (mad Preacher), Shelly Winters (his wife killed), Lillian Gish

Magnificent Ambersons の撮影監督Stanley Cortez の画面が素晴らしい、抽象的なB&Wの照明、画面構成が申し分ない。
リリアン・ギッシュがライフルを持って窓際に座っている構図など、度肝を抜く美しさである。デュラス、トリュフォーが狂ったのも理解できる。


"The Third Man " Carol Reed   Starring Orson Welles    4.29.04

傑作である。ストーリーは典型的なgy八雲の活劇であるが、cinematography がすごい!!スクリーンで見なければ殆ど無意味であると断言しよう。マンホールから地下に入り、ウィーンの地下水道の中で繰り広げられる最後の追走劇はいくらでも見続けられると言えよう。陰影豊かな画面構成、直線の入り組んだダイナミック構図、前後感覚を麻痺させる音声空間のエコー、このコンビネーションで展開される活劇はただただ素晴らしい。

右か左へとティルトされた意図的なコンッポジションが、観覧車の中でのwelles と彼の友人の対話のシーンで、その効力を発揮する。右、左へと「室内空間」が揺れるたびに、世界そのものが重力を失ってバランスを失い、文字通り「宙づり」となる。

映像、音声が豊穣な説話空間を作り上げるこの傑作は、ブレッソン「抵抗」のハリウッドバージョンと言えよう。


Wild Strawberries    Ingmar Bergman   1957    89 min   6.7.04
"SMULTRONSTÅLLET"

自分が他人を無視し続けてきたたjことを気づかぬ78歳の大学教授が、それを息子の嫁に指摘され、実はそれだけではなく、自分がずっと無視され続けてきたことを思い知る。息子と父の完全に交わることのない関係。一定の間が開けられたままけっして狭まることのない距離。孤独を思い知った老人は最後、ただただ幼少の頃の思い出に浸りつづける。

あくまで人間ドラマであり、老人の孤独と言うわかり易いテーマをわかり易い設定ーー社会的には高名な大学名誉教授とその家庭、息子、その嫁ーーのなかで描く。老人(Victor Shuellestreme)の役者の暗さはすばらしく、「人の話にいままで本当の意味で耳を傾けたことがない」というのが納得できうる存在。それだけで映画は成立してしまっている。が、他の細部はたいしたことない。


"The Flight of The Phoenix"
「飛べ!フェニックス」  ロバート・アルドリッチ 1965年

男はプライドを曲げてまでやらねばならんことがある。
それは生き延びること!
疑いようのない傑作。



Le Rayon Vert     Summer    緑の光線   1986年 94分 エリック・ロメール

このよう映画を傑作と呼びたい。プロダクションバリューはまったくなく、映画の中身、精神だけで勝負するという、全て余計なものを取っ払った中でエッセンスだけに観客の視点を誘導してゆくシネマ。この揺るぎのない直線性は素晴らしい。

最後の光と声だけでもたらされる官能、これが素晴らしいのだ。ラストの日没時、二人の男女が水平線に沈む太陽を見つめているカット割りは、サスペンスであるし、ここまで引っ張ってこられた憂鬱なムードが一気にマイナスからプラスへと転じる瞬間でもある。空気中を満たしているこの緑の光線への期待感を、90分の時間を使って高めてゆくこと、これがエリック・ロメール流のサスペンスなのである。

マリー・リヴィエール演じるデルフィーヌの徹底した、ディプレッション。男への不信感もどんどん積もる。自分は何も取り柄も何にも持たない女だといって泣きじゃくる時は、どうしようもなく「負け組」で、かわいそうになる。このように徹底して一人の女性の心理を描き続けるというのは、シンプルで勝つ素晴らしく豊かな可能性を広げてくれる。バケーションを終え、帰りの列車を駅で待っているデルフィーヌはドストエフスキーの「白痴」を読んでいる。その前に、一人の男が座り、話しかける、ここまで沈んでいる彼女は、駅という静かで且つ気分が沈んでしまう空間で、同じ境遇にいる男に心を開くのだった。心配で、心配で仕方ない、不安なキャラクターがようやっと心を開いてゆく過程を見るのはドキドキするのだ。そこがいい。



戒厳令   1969年   現代映画社・ATG 製作配給

映像的には「エロス+虐殺」からさらに突き詰められ、最も完成度の高い作品である。
全てのドラマはフレームの境界で演じられ、その視界に消えるか消えないかの境目で浮沈を繰り返す。まるで、現実が我々の現実認識がそれほどあやふやであるかと、常に疑問を投げかけてくるかのようだ。

血は渇いている
吉田喜重      1960    90分

画面の切れが素晴らしい。同時代に向けたポリティカルメッセージとゴダール的な画面の突出が、絶妙にバランスされている。



The Nakid Spur        Anthony Mann   1953   93 min

Jim Stuart   Janet Lee

全員が人をころすのを渋っている50年代の西部劇。
度を続けながら情が移ってゆき、渋りながら、仲間を殺そうとする。
そのじれったさ、踏ん切りの悪さがおもしろい。

女が手負いのJim Stuart を看病してあげたとたん、m上が移ってしまう。夢のことを語る時間を共有することで、もう二人はキスしてしまう。ご都合主義的な人の接近は映画そのものであり、それがおもしろいのだ。
それが伏線となり、岩場でラスト敵対する時、女はまず老人を相棒の男が殺したことに動揺し、最後Jim Stuart をねらおうとしたとき、ライフルをはじいて狙いをはずす。男の力の対決と女の情、矛盾をドラマと仕立てる典型、である。



エロス+虐殺   吉田喜重   1969   現代映画社

画面の下の枠で頭を切るフレーミング、白、または 闇のスペースを作るオフセンターのフレーミングは一貫して貫かれており、それは素晴らしかった。しかし、どこかで吉田喜重独特の文学的セリフ回し(60年代という時代的影響もあるだろうが)がまどろっこしく、無理矢理映画を難しく作り上げてしまっているところがあるようにも取れる。
この作品と作家のオナニーとをどう区別するのか?難しいところである。画面はきれいだが、「遊び心」が欠けており、ただただ間延びしている画面(しかし美しく造形されているから・一方的には避難しがたい)を見続けなければいけない時間が多々あった。

「あたしは女」などというセリフ、

映画の細部で決定的に突出している人、吉田喜重。その細部の突出ぶりを一言で言い表してしまうこと、ーーそれが自分の野心であると思うーー画面がなぜこうまで突出しているのか。

吉田の映画には、俯瞰ショットが多い。

画面が傑出、突出する意志ーー制度的な映画からできるだけかけ離れた地点から映画を見下ろすことーーそれが吉田喜重の浮遊する視点ではなかろうか。規制の価値、制度、その対立を同時共存させ、宙づりにすることーーそれが映画的、空間的、光学的、主題的アプローチに通底する統覚であるように思えるのだ。上下の視線の美学。
 

「さらば夏の光」  1968年   現代映画社 配給ATG   

ロングレンズを多用した被写界深度の遊び、幾何学的構図を使ったグラフィックな俯瞰撮影などおもしろい映像的な遊びはあるが、
夫と別れようとしている女、その女に恋する男という単純な構図がずっと変化なしに引っ張られるという間延び感は否めない。女はヨーロッパでしか生きることのできない女、歴史によって否定された日本=彼女の長崎(それは戦争によって壊滅した街)を正視できずに、ヨーロッパを放浪することを選んだ。男は、大航海時代の魂の源泉となったキリスト教文明の発祥地「カテドラル」を探している。それはあくまで抽象的な愛のシンボルであり、男はそれを女の中に見いだす。このような観念論的分析はいくらでも展開できるが、映画がその観念論的主題に特化されていて、一言で言えば、おもしろくないのだ。全てモノローグで説明され、しかもセリフがくさくてキザすぎる感もある。
 



人間合格    黒沢清   5、14、04
◆キャスト◆
西島秀俊 菅田俊 リリィ 麻生久美子 哀川翔 役所広司

画面の奥に立ち乗りバイクで消える少女が段ボールの山に突っ込む。「運転できる」といいきる西島秀俊が、トラックでゴミに突っ込む。馬を探して橋の欄干に駆け上がった彼は、おりようとするとまたもやゴミの山に突っ込む。そのゴミの山のそばに悠々と馬が立っている・・などなど引き、寄りの間合いでギャグを生み出してしまう黒沢清のセンスは素晴らしい。

「虚構として、ドラマとして成立させるための仕掛け」がいくつか用意されている・・・意識不明となっていた息子が10年ぶりに奇跡的に覚醒したことを契機に、バラバラになっていた家族が再びウチに戻ってくる。いったんは昔のような平和(父親をのぞいて)が訪れたかに見えたが、いったんバラバラになってしまった家族はやはり元には戻らず、離れていってしまう。そして家族が崩壊したのは、父親が新興宗教団体に染まってしまったからというのがもう一つの原因だということが示される。テレビのニュース番組で船の遭難から救出された父親のインタビューを家族がみいる。彼が自分の仕事、今何やっているのかをかたりだしたとたん、娘はボリュームを消してしまう。「まだしゃべってるよ」と笑いながら、この一つの仕草が全てを説明しているーー素晴らしい。「求心力を失った現代の家族」とくくることができるように、(本人はあくまで映画にしか関心はないと見えるが、)物語がしっかりと構築されている。

最後、娘と彼氏、そして母親がなぜ離れていくのかは説明されない。しかし、それは明らかだ。家族が機能していないからだ。10年ぶりに覚醒した西島秀俊がなぜこうも大人の話し方、語彙があるのか、など細かいディテールを追求することはできる。しかし、映画なのだからそのような飛躍が面白いんじゃないか。それほど画面、アクションが魅力的だといっておこう。

最初、病院の廊下をベッドが滑走し、それとともに医者、看護婦が走っているショットで始まる。次に、西島の病室、「静」のショット。このように動と静のメリハリが映画の感性を揺るがす。

そして夜中、彼を車で引いた男がチェーンソーを持って襲ってくる。このシチュエーションの荒唐無稽さが笑えるし、面白いのだ。また、馬を取り返しにくる中年男と西島とのやり取りも面白い。面白いキャラ同士を対決させ、画面内を走り回らせなきゃ気が済まない。それが黒沢清だ。

その時の西島の台詞「オレはどこかから来た。そしてどこかへゆくんだ」という台詞は、いいんだが、いまいちパンチがない。詩的なのはいいが、ヒネリが90度どまりで180度までは行かなかったという感じだ。

荒唐無稽な画面を列挙すればきりがない。
川岸でウクレレを弾く女(ニューヨークに行った歌手になると言う)、突如母親の元から姿を消しスクータ−で戻ってくる西島、青々と茂った草むら沿いの道路を颯爽と歩いてくる父親、寝転がった顔の上に草を食う馬の姿、「目障り」なことをやたら気にし続ける哀川翔、兄妹で土地の相続について意見が食い違うー次のショットでは屋外で派手なケンカー炎燃え盛るそばでゴミを投げ合うーーこの飛躍、省略ーーそれは最後、「動けるか?」「ううん」「よし、すぐ救急車をよんでやる」と行った直後、霊柩車にお棺を入れる画面になる場面もそうだ。こちらが置いてかれてしまう「あっっっっと」言う間の省略。これが素晴らしい!!!

観客をびっくりさせることに命をかける黒沢清。ここでルビッチにも繋がっているかもしれない。



King and Country    1964   86 min   Joseph Losey
Man on the Breach 1955 29 min  Joseph Losey

素晴らしい反戦争映画。2次大戦中、泥沼化した最前線の兵士が逃走する。軍事裁判にかけられるが上官(Dirk Bogarde) が彼に同情j氏、かれをかばう。裁判官である、さらに上層部の兵士たちkの感情に訴えかけたかに見えた裁判。しかし、判決は軍規違反で死刑。その世、祖kの兵士は女児分をかばった上官に例をいう。夜中の雨rが降りしきる、。泥沼のテント、上官はひたすらハードボイルドを装い、内に秘める感情などは「職務外」であるから口にはしない。"Don't thank me for my duty" を突き放すのだった。その夜、兵士の同僚の兵士が彼の牢屋に忍び込み、大宴会hが開かれる。その時、部下の死刑にやりきれない上官は雨の沼地を歩き回り、(何も心情描写などはいっさいない、ただ沼地で一度こけるだけ、それで十分なのだ!)死刑判決を下した上層部の兵士の部屋に行き、不満を足れようとする。ーーその垂れ方が素晴らしい。"Why??" と詰問する。 "Are you trying overstepping?"と上層部兵士に牽制されて、やるかたなく、出てゆく。軍規にたてつくことは、無意味であることはかれも十分承知しているからである。組織社会に挟まった中間管理職の悲哀がにじみ出ている瞬間。

翌朝、兵士は処刑される。しかし、10人ぐらいずらっと並んだ処刑兵誰一人として、彼を狙わない。全員狙いをわざと外して、彼は助かってしまう。しあkし、それは一瞬のこと。最後上等兵のピストルによってかれは命を絶たれる。

廃墟と、雨、沼地さえあれば戦争ものの低予算映画の傑作を取ることができる。この軽やかに密度濃い傑作を撮り上げてしまうロージーの手腕が素晴らしい。

Man on The beach

賭場から金を恐喝して巻き上げた強盗2人が人里離れた海岸で仲間割れ。地割れしたように線が走っている沼地で、泥だらけになりながら殴り合う強盗2人組。美しい。そして、一人は殺され、車ごと海岸壁から谷底へ突き落とされる。手負いの男は一軒家に逃げ込む。ーーこの設定だけでフィルムノワールである。その一軒家には一人の医者が住んでいた。酒を浴びるように飲み、一人で暮らすこの医者は明らかに落ちぶれている。手負いである強盗の鉄砲に全く物怖じせず、ひねくれたんbmその医者に男は腕を治療してもらう。

この中編映画全編を通し、我々は彼が全く盲目であることに気づかない。医者が口の立つ、肝の座った男だと誰もが納得してしまい、余のhない手負いの強盗との対話をユーモラスに、面白くしたt下あげてしまうところがイキである。
ラストショットーー床に落とした銃を必死に探すところでようやく!!!彼が盲目であることがわかる。傑作短編だ!
 



The Searchers
John Ford
1956    120min

John Wayne, Jeffrey Hunter, Vera Miles, Natalie Wood

傑作である。最初のjohn Wayne の登場の場面、幼女デビーが内之浦の’墓場でさらわれてそい舞う場面。そして、ぬっと現れるScar 幼女を見つめて、襲撃の合図のホーンを吹く。

その後*( trail)lを追って、ジョン、ウェインら5人のカウボーイたちが「捜索」を続けるが、 際sののインディアン(コンマチ族)との遭遇、編集により画面で遭遇、緊張、接近、疾走、攻防が示されるのがスリリングである。この最初のアクションから人は、申すでに映画の虜となる。画面上で馬を誰よりも美しく、速く滑走させるフォードは天才である。この画面を見て血湧き肉踊らるエモーションを抑えられるものはいないだろう。

Trail を追って捜索を続けることが西部劇の伝統的な仕草なのだろうかーー「ワイルド.アパッチ」もそうであった。馬を休ませながら、ゆっくりと前進し、2手に別れたり、挟み撃ちしたりしながら、インディアンと距離をつめてゆく。

最後近く、Martin Z(Jeffrey Hunter )とVera Miles の結婚相手が殴り合う。あのおおらかなユートピア的なケンカは、フォードならではのものだ。"Fight Fare,  Fight Fare" そしてVera Miles がJohn Wayne  に"Stop this, Ethan!" Wayne "You started this!"とかいって取り合ってくれない。『静かなる男」である。

そして最後いよいよデビー(Natalie Wood )を救出するため、Scar のキャンプを襲撃する。
まず闇夜、遠くのキャンプを岩山の上から偵察するウェインーー素晴らしいロングショットとクローズアップの切れ味。もうこの時点で我々はいすから乗り出している。Martin がこっそり忍び込み、単独でNatalie Wood を救出する。徒歩で近くに近づいてゆくカウボーイたち. Martin がscar に見つかった瞬間、ジョン/ウェインは襲撃の号令をかける。キャンプのテントの合間をぬって、カウボーイ集団が疾走する。この大迫力の滑走に興奮しないものは誰もいないだろう。自分も見たその夜は、なかなか寝付けなかったぐらいだ。
あの騎兵隊のラッパの音は忘れられない。いつか映画で引用したい。
 

●素晴らしい台詞

"Take a look!" "Keep talking" "You said enough!"
"Buried her with my own hands."
"What do you want me to do? Draw you a picture? Spell it out? Don't ever ask me as long as you live , rest of your life!"  (姪の死体を見つけた後)
" Love affair with the land"
"Love of the Dirt"
"Dirty Look man"
"They ain't white any more. they are Comatch."
"Let's go home, Debbie."
"He comes in a long, long way."



4.21.04

"Twentynine  Palms"   Bruno Dumont 2004

Palm とは勝利の象徴らしい。

何の勝利なのか ーー 何も説明しないこの人物描写の徹底が、従来のアメリカ式ストーリーテリングに対する勝利といいたいのだろうか。

アメリカで撮影しながら、徹底的に「アメリカ的」であることを拒否した映画。
それは「Dogville 」のアメリカ批判にもつながる。(Dogville は、映画に向かって撮っている訳ではないのは確かだが、映画にしかできないことを実現している。)

結末としてのハプニングーー襲撃、レイプ、そして、連鎖する暴力。
これを買うか否か?ーー自分は当初、買わなかった。ーーしかし、どうだ?時間をへて考えてみると、突如の、脈略のない暴力、ハプニングというのは、「現実的』であり、また「Free Radicals 」のような、現実の映し身としてのカオスであるといえるかもしれない。

映画としての時間、自動車で移動する2つの肉体をただただ見つめ続ける。なぜこの2人がこの場所にいるのか、2人の人物はどのような人物であるのか、が(明らかに意図的に!)全く説明されないまま、何の変哲もないアメリカ人ーフランス人カップルを見つめ続ける。「動物を観察するような視点だ。」Kevin Leeは言う。それはある程度あたっている。

何かを説明すること、を徹底的に排した映画。すべてを暴力的に、唐突に行うのが、ゲームの規則なので言いたげに。
ぶっきらぼうとは・・何らかの豊かさがついて回る肯定的な唐突さだが、この映画の唐突さはぶっきらぼうとはちょっと違う。もっと意図的な意味の排除、身体への視線である。ブレッソンなのであるーーそれが単純にいっておもしろくない、といえないのである!我々を画面に釘付けにする才能をこの作家はたしかに備えているのだ。

人間がきらいなんだな、この作家は。Humanite といいながら最も「人間性」とは対局の映画を撮ったことを鑑みれば、この映画もいってみれば「Humanite」と名付けることができよう。

これだけ意味を拒否する虚構を見せられても我々はラストに、アメリカの現在、暴力の無差別化、混沌、そして暴力という神経症の連鎖ーーというように意味付けを考えてしまう。「意味という病」である。


4 For Texas   Robert Aldrich 1963

Frank Sinatra
Dean Martin
Anita Ekberg
Ursula Andress
Charles Bronson
 

一つ一つの人物の登場が素晴らしい。特に最初に出てくるDean MArtin の乳母(?)のもとに最初彼が100,000ドルを持って戻ってくるシーン。彼女はピアノを弾いている。ーーどうやって振り向く。子供が吹き矢を彼女のケツに吹く!びっくりして振り向く乳母!

また最初のCharles Bronson のアップ。'You know this is a bad guy!" とナレーション、そして彼が岩山を駆け下り、stagecoach を襲撃する空撮に突入する。その迫力!

見るからに悪役に成り下がるであろうとわかる、コスイ銀行屋のデブは、Robert Altman 「Wedding」 に出てくるデブの圧倒的な存在につながる「デブの系譜」。汗を白いハンカチでふく仕草、巨大なハンバーガーを’もったまま殺し屋の脅しに震え上がるシーンなど。予想通り、最後に裏切るのはこいつだった。
 

The Longest Yard  -- Robert Aldrich, 1974

傑作。一瞬たりとも無駄にしない、男の映画。アルドリッチ。
冒頭、女をぶん殴って、警察に終われ、カーチェイスから始まると言う、アメリカン・ワイルドの極地から突入。カーチェイスも半端でなく、スピード、演出も素晴らしい。開閉式の橋の向こうに警察を置き去りにする!次、湾に女の車を捨てる。葉巻と一緒に。次、バーでゲラゲラ笑っていると、警官がくる。警官をからかうBurt Raynolds "Why did you put the car in the bay?" "Cuz I couldn't find a car wash!" で殴り合いとなる。次、Burt Raynolds はポリスカーに乗って刑務所につれてこられる、そこで、タイトル、監督アルドリッチ。完璧な導入!

刑務所での労働作業のシーンがいい。対立する男同士、が無言で働き続ける。Burt Raynolds ともうひとりのいけ好かない白人の囚人。作業用長靴、そしてパンツのなかに泥を突っ込み合う。爆笑である!!

やたらヘアがでかいケムソ長の秘書、一緒に手錠をはめられて、肉体労働をさせられ、一緒に昼飯を食う黒人、30年間ムショ生活、給仕当番のじいさん(このじいさんにBurt Raynoldsが最後聞く、"Hey body, how was your 30 years in the prison?" "Not bad." それがきっかけで Raynolds は、八百長を捨て看守チームに立ち向かう決心をする。)、頭は弱いが馬鹿力ののっぽ、看守からいじめに遭い復習を誓った黒人チーム、などわかり易く面白いキャラクタ−がいい。画面分割の躍動感には興奮した!



Fists in his Pocket  (I Pugni In Tasca)      Marco Bellocchio   3.24.04
1965 105min

傑作。処女作としていう一生に一度しかない機会にこれだけの突出を成し遂げたのは、他にゴダール、トリュフォー、キャサベテス、ベルトルッチ、吉田喜重ぐらいではなかろうか。自分でもどうにもすることのできない若者の暴力的なエネルギー、いらだち、気まぐれをキャメラで丸ごと捉えてしまった。その過激さ。10代の青年(Lou Castel)が急に笑い出したり、走り出したり、叫びだした利する。いつも無表情で内にどうにも出来ない感情を秘めている彼のパーソナリティーが、とらえどころがなくて素晴らしいのだ。あらゆる類型化から飛び出し、全てに抗おうとする感情の塊。シネマでしか撮し取ることはできない。



Crimson Gold
Jafer Panahi
2003

労働の血 という意味らしい。労働=黄金の価値=人間の血そのもの、という意味だが、それが物語として反語的皮肉に響く。

ストーリーが素晴らしく、脚本がいい。視点の付け方、都市生活の背後、アウトサイダーとして生きる人間の時間をp徹底的に描いた。ーーそれはTEN にも通じる、一つの視点に自分を置き、徹底してそこから社会を描こうとする一貫した姿勢である。つまり、パーティーがあればその中を決して映したり、県コンする中のカップルで有れば、セックス描写をするなど、ありきたりおきまりと考えられる者を徹底的に排除することが、キアロスタミの視点なのだ。ーーそれはイーストウッドにも通じる。

●社会の背面のみに焦点を当てること。
パーティーが行われている、外で警察が抜きうち検挙をしている。いくつものキャラをそつなく見せつつも全体の状況を一発で把握させる、その視点確かさは脚本から来る者だ。マンションから出てくる人間模様とカーテン越しに見える人間達のダンス、そこから大体何が行われているかは想像できる ーー中を見せないことーーまたは全ては見せずにほのめかしながら展開してゆくことーーこのMise-en-scne は現代映画(またはルビッチー小津なのだが・・)である。

●テーマ
社会階級の高低差、貧富の差が絶望的に角田視している現代都市テヘラン(それはアメリカ的資本主義都市である!)そのどうにもならない貧富の差、社会の不公平に絶望するしかない男の話。だからかれは口をいつもつぐんでいるのだ。だから彼はいつも空想癖があり、この世を浮いているのだ。彼はピザの宅配をしている。仲間のダチとはよくつるみ、ひったくりなどをやって、助成のバッグからあ小物や、小銭をかっぱらったりもしている。バイト先のレストラン(ピザ屋)ではボスの不平も、この子分肌のダチがなんとかしてくれている。彼の妹と結婚する予定になっている。そのピザの宅配仲間のコミュニティはある種、社会の低所得者層(キアロスタミは周到にさらにその下の最貧のホームレスも描いている!)の男達の集まり。最新のスポーツメーカーの(ナイキではない)スポーツシューズを自慢げに仲間内に見せている男(彼は後に事故で死んでしまう)など、たわいのない話の中にも彼らの日常が見え隠れする。

そして、最後の前、男はアメリカにいる金持ちの親を"Vegitate "しているボンクラ息子(彼は宝石店に来ていたような典型的な金持ちではなく、面白い)が一人で暮らしている超高級豪邸で自分の宅配したピザを食べるハメになる。

Crimson Gold -- フセインが「血」と誤解したそれは、マニキュアの赤だった。ーーそれは最上級層では浪費されているに過ぎない赤=労働の血、を意味しているのか。

●しかし、撮影とキャスティングがイマイチ。主人公はまあいいが、後のサポーティングが下品。「クローズアップ」の彼がバイクに乗るところと比べると、やはり下品な顔立ちを選ぶクセがある。

●撮影に関して言うと、たとえば最後水のプールに飛び込むところは素晴らしいのだが、あの飛び込んだ後に水でぷかぷか浮いているショットや何かオブジェのショットをインサート出来ないというところが、ホウシャオシェン・吉田喜重とのレベルの違いだろう。

●始まりが暗闇からはじまり暗闇で終わるというのはいい ーーしかし、Again like CIRCLE、簡単に閉じてしまっては面白くないというのはある。その先を行くのがシネマなのだから。
それよりも、円環としてラストシーンになる直前、フセインがこの世を憂く最も芸術的な(クリエイティブな)時間が、最後のシーンの直前に配置されているのが、明確で素晴らしい。芸術的な場面が、テーマのカタストロフィとしてもはっきりと機能しているのだ。最後の場面で「なぜフセインは宝石店強盗をするハメになったのか」というのが、何の説明もなしにエモーションとして示される。これが素晴らしいのだ。

●フセインの一人の部屋もいい。何もない部屋。そこから映画は始まる。



人間の約束   1.17.04

●「私もデカはじゃなかったら、殺したんはダンナでも息子でもない。あいつなんだっていいたいところです。」このセリフが何とも深い。あれだけ「死なせて、死なせて」という婆さんを殺したのは、本当にだれか一人だったのか?死なせてやりたいと思う、家族全員の思いだったのかも知れない。息子が洗面器で自殺を図ろうとしていた我が母親の頭をそっと、ほとんどなでるように抑えて、自殺を手助けして遣ったーーこの表現の微妙さが、婆さんの死のもつ意味、そのものであった。この本当に繊細なジェスチャーを考え出した吉田喜重はすごい。リアルな結論である。

●一つのニュアンスーーどんな意味にも還元できない宙づりのコンセプトーーを表現するジェスチャーを映画の根幹に持ってくることーーこれが素晴らしい。

●水のモチーフーー連関したいくつかのイメージで貫かれている。
  水鏡、水に映った老婆の顔、突然降り出す雨、曇りガラス、放水する消防車の滝のような水を眺める老夫婦など。

●哀愁漂う老夫婦が苦しいだけの人生を憂い、二人頬寄せ合い、歌を歌う時間ーーいつまでも続くかに思われるその時間は、だんだんと哀愁とも、美ともいわれぬ宙づりの時間を形成してゆく ーーこの時間は圧倒的に素晴らしい!

●インサートイメージがさらにその宙づりを抽象化するーー何度か会話の中ででてくる「大沼」ーー昔老夫婦が住んでいた場所ーーや、もう今はない大沼の沼の水藻、婆さんの夢であった西国巡業のイメージが、アブストラクトな抽象イメージとしてインサートされる。

 

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